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3.11~あの日、東京の帰宅事情

あれから8回目の3.11。

 

私はあの日、原宿のオフィスにいました。

地震で、机の上に積んでいた書類はなだれ落ち、

周囲のビルから出てきた人が道路にあふれていましたが、

電話もつながり、インターネットも通じていたので、

しばらくして、みな仕事に戻りました。

会議室にあったテレビの画面に、あの津波が映しだされるまでは。

 

東北の被災地があまりにすごくて、

あの日、東京にいた人がいかに大変だったかということは、

あれからしばらく誰も口にしませんでした。

相手が東京にいたとわかると、そして周囲に被災した家族や親せきがいないとわかると、

あの日、どこにいた?、どうやって帰った?という話をする程度です。

 

私は、父がその日デイサービスに行っていたこともあり、

同僚たちより一足先にオフィスを出ました。5時頃だったと思います。

どうやら電車が動いていないという話が出始めていました。

父が行っているはずのデイサービスとは電話がつながりませんでした。

地下鉄は止まっており、隣の渋谷まで歩きました。

渋谷からは、家のすぐ近くまでバスがあるからです。

明治神宮前では、途方にくれた外国人旅行客、

たぶんホテルにも帰れない人たちがけっこういました。

 

バス停はすでに人だかりでしたが、2,3台待てば乗れそうな感じでした。

7時くらいにどうにか乗れました。

バスの最後尾の座席に座れましたが、すでに渋谷駅周辺は大変な人、人、人でした。

ともかく、このバスに乗っていれば家に帰れる、と思いました。

 

しかしバスは、となりの歩道を歩く人の歩みより遅く、

渋谷のターミナルをでるのもやっとで、

坂を一つ登るのに3時間ほどかかりました。

道路にはぎっしり車。時折、真上の高速をサイレンを鳴らした車両が走り去る音が聞こえました。

バスが進まないので、降りて歩く人が出始めました。

バスはバス停でなくても、降りたいと言えば下してくれました。

 

うどん屋の前を通ったとき、女子高生が「食べたい~」と言い出したので、

誰かが、どうせ動かないから食べておいでよ、と言って笑いが出ました。

 

携帯電話で見るワンセグでは、東北で津波が押し寄せ、火事が出ている様子、

東京近辺の電車が全部止まっているというニュースが流れていました。

その携帯電話の電池もだんだん減っていきます。

 

9時頃、父のいるデイサービスからの電話が入りました。

「一度家に送って行ったが、エレベーターが止まっていて入れない。帰れない職員もいるので、お父さんは今夜こちらで預かります」という。

父は視覚障害1級ですので、たとえ家に送ってもらえても、あの揺れでどうなっているかわからない家の中に一人で置いておくことはできないと思っていたので、

とてもありがたい申し出でした。

これで何時になっても、とにかく家に帰ればいい。

 

日付が変わりましたが、まだ家までの距離の3分の1も進みませんでした。

あの夜、とても寒かったことと、私はピンヒールを履いていたので、

歩くということはちょっと考えられませんでした。

バスの中は立っている人もいましたが、持っている飴を周囲に配ったり、

どこに住んでいるとか、何が心配だということを話したりするようになりました。

のどが渇きますが、どこでトイレに行かれるかわからないので、

水を飲むこともできません。

 

深夜になって動き出した私鉄もあったようですが、

その私鉄のバスなのに、運転手さんにも何の情報も入ってこないようでした。

外にいるはずの弟とも連絡が取れませんでした。

メールもかなり遅れて届くという状況でしたから。

1時を過ぎて、対向車線に空車の赤い表示のタクシーが走ってくるようになりました。

地震直後に郊外に向かったタクシーが都内に戻ってきたようです。

 

隣に座っていた高齢のご婦人は、私と隣の駅だと言っていましたが、 

「降りてもとても歩いては帰れない、このまま乗っていく」と言います。

このままだと、朝になっても家に帰れるかどうかというところでした。

そこで、バスを降りて、あのタクシーを拾って一緒に帰りましょう、と言いました。

バスは路線しか走れませんが、タクシーなら裏道を行けるからです。あどう

ご婦人は同意してくれました。

外は本当に寒かったです。

 

バスを降りて反対車線にわたると、タクシーは意外とすぐ拾えました。

暖かいタクシーの車内にはいるととても落ち着きました。

そこからは普通なら家まで20分くらいのところですが、細い裏道まで渋滞していました。

タクシーの運転手さんに、渋谷からここまで6時間かかったことを話し、ご婦人をおうちの近くまで送りました。そこまで4000円くらいかかりましたが、半分でいいですよというと、いいからと言って4000円出してくれました。

そのあと私の家まではさらに40分くらいかかりました。通常の深夜なら5分ほどのところです。さらに4000円くらいかかりました。

 

家のエレベーターは幸い動いていました。

私より少し早く、弟が家にたどり着いていて、私の部屋のなかがめちゃくちゃだとメールをくれていました。

家にたどりつき、弟の顔をみてほっとしました。2時半ごろでしたか。

とりあえず片づけは明日やることにして、弟と遅い夕食を食べました。

私の部屋は天井まである背の高い本棚から、本が全部落ちていました。

 

東北がどれほど大変なことになっていたか、本当に知ったのはそのあとです。

 

翌朝、父はにこにこして、デイサービスの車で送られてきました。

人がたくさんいて、怖い思いはしなかったそうです。なによりでした。

 

家族が皆、無事家にたどりつくことができればなんとかなる、と思った日でした。

大変だったけれど、あとになれば笑って話せる程度のことです。

 

あれから、家の中の背の高い家具は、誰も寝ない部屋に移動しました。

天井まである本棚は処分して、1メートルくらいの高さの本棚に買い替えました。

ペットボトルを2ダースほど、常に常備しておくようにしました。

家の中に、数日はいられるだけの食料は常備するようにしました。

どんな薬があるかを確認し、不要な毛布やタオルも、場所をとるけれどとってあります。

遠出するときは、スマホの充電池を持っていくようにしています。

父はあれから入院したので、一人にすることがなくなったことは、

ちょっと安心できる材料です。

 

あと、病気は「持たない」ようにすることでしょうか。